「父、子、聖霊なる神の交わり、その似姿への回復」ゲオルギイ松島雄一氏

「神の救い―時空間を超越した、その宇宙大のスケール」特別番組・父、子、聖霊なる神の交わり、その似姿への回復―正教会の信仰と霊性・ゲオルギイ松島雄一氏

特別番組「父、子、聖霊なる神の交わり、その似姿への回復―正教会の信仰と霊性」より
ゲオルギイ松島雄一氏(日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭)

使徒たちのキリスト体験
—聖書と教会の源

松島正教会の信仰の拠り所は何か。プロテスタントは「聖書のみ」、カトリックは「聖書と聖伝」と考えられていますが、「では、正教会は?」と問われるならば「聖伝です」とお答えします。ただ、ここで、「聖書には書かれていないが教会が大切にしている様々な伝統や習慣等」をイメージされると、それでは不十分なのです。

聖伝というのは、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 」(1コリント15章3~5節)とあるように、この「使徒たちの体験」が根幹にあるのです。さらに、「わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。」(1ヨハネ1章3節)こういうキリスト体験の受け渡しこそが聖伝なのです。使徒たちが一生懸命伝えようとしたことは、イエスの「教え」だけではありません。

そのことの極地が、復活の主との出会いの体験であり、その受け渡しの「器」が、聖体礼儀(聖餐)なのです。だから私は、キリストご自身がこの伝承を命じ、その器(聖体礼儀、聖餐)をここに残していくと仰っておられると思っています。つまり、最後の晩餐の時、パンをとって「これはわたしのからだ」、杯をとって「これはわたしの血」と仰ったのは、私たちが見て聞いて触ったことの中で最も大切な体験を記憶するためです。だからキリストご自身が「あなた達が体験したことを、確実に歪むこと無く伝えていけ」とお命じになられたんだと思うんです。

そして聖書についても、主イエスはどういう御方で、使徒たちがどういう体験をしたのかを間違いなく伝えるために編纂されてきたのが新約聖書です。また、旧約聖書も彼らのキリスト体験の中で徹底的に読み直される訳です。そういう意味で、ここでも重要なのはやはり、使徒たちのキリスト体験の受け渡しという聖伝であり、敢えて言えばこれが本来のキリスト教の聖書理解だと思っています。

付け加えるなら、正教会にとって、教義というのは少なければ少ないほどいいんです。西方教会のようにあらゆることを厳密に定義して、一分の隙もなく間違えようのない神学的世界を隅から隅まで信じることが求められるなら、使徒たちの信仰のダイナミックさを損なってしまうのではないかと思います。