「われら罪に定められず」より
聖書をあなたに・ローマ人への手紙
加藤常昭氏(日本基督教団隠退教師、神学者)
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。(ローマ人への手紙8章1~4節)
水も漏らさぬ周到な議論
この部分をある説教者は「水も漏らさぬほど周到な議論をしている」と言いました。なぜかというと「神のなさることにスキはないからだ」と。だからパウロは、神様の救いのみ業をちゃんと説明しようと思ったら、いい加減な議論ではダメだ。少々難しいという印象を与えるような、きちんとした言葉を連ねているのです。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(1節)これは非常に激しい言葉です。「罪に定める」とは、罪を罪として明確にして処理をするということです。けれども、「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事」(3節)とあります。それはこの罪を罰するということが出来なかったということです。なぜか。「肉により」とありますが、これは不信仰によって律法は無力になって、罪に対する力を持つことが出来なくなっているというのです。その意味で、全ての人間は罪の前では無力です。罪を罪として定めることすら、もうできなくなっていたのです。
そこで神は、「御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし」。
こういうところがパウロの用意周到な丁寧な言葉の作り方だと思います。御子が罪を犯されたわけではありません。けれども罪そのものである私どもと同じ姿を持って私どもの所に来て下さった。それは他の何のためでもない、罪のためである。言ってみれば、いかなる人間もそれほど真剣に考えなかったほどの真剣さを持って、神は御子を、私どもの罪を処理するために遣わして下さった。肉においてということは、御子イエスが、私どもよりもっと真剣に人間が罪人であるということをご自身に引き受けて下さって、ということです。