「愛された、いちじくの木」より
どこへでも、どこへでも―ルカによる福音書
井幡清志氏(日本基督教団石動教会牧師)
このイエス様の「実のならないいちじくの木のたとえ」は、よくよく見ると不思議な話です。このいちじくの木がどこにあったかと言うと、ぶどう園なんです。ぶどうは豊かな実り、神様の恵みを象徴するものです。だからイスラエルの人たちは、このたとえを聞いた時、私たちはぶどうの木だと思ったでしょう。しかし、イエス様がおっしゃったのは、その中に一本だけ植えられているいちじくの木の話だったんです。しかも、何も実っていない。それがあなたではないのか、とイエス様はおっしゃるのです。
ぶどう園に生えた一本のいちじくの木。見方によっては、ぶどう園にまことに似つかわしくない、場違いな者がそこにいるということなのかもしれません。ぶどう園の主人である神様は、いちじくの木を植えさせて、3年の間実を探しに来ています。「今年はどうかな、実がなったかな」と、本当に実りを楽しみにしてこの木を植え、手入れを頼み、収穫を待っているんだなと思いました。ぶどう園でぶどうの収穫をするのは、事業です。でもわざわざそのぶどう園にいちじくの木を植えて、その実りを毎年探しに来ている。この主人はいちじくの木の実が好きなのではないか…と思い巡らしました。
私たちは、気がついた時には生きていました。自分の存在に驚くこともなく、自然なこととして毎日生きています。でも、あなたがここにいることは決して当たり前のことではないのです。
ぶどう園にぶどうがあるのは当たり前。でも、ぶどう園にいちじくの木があるのは当たり前じゃない。なぜ当たり前じゃないものがそこにあるのか。神様がそれを望まれたからです。そこに存在させたいと神様が願っておられるからです。