「犠牲」上竹裕子氏(1/2)

「犠牲」タリタ、クム。起きなさい。―主日の説教から・上竹裕子氏

「犠牲」より
タリタ、クム。起きなさい。―主日の説教から
上竹裕子氏
(日本基督教団磐城教会牧師)

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「献身」という言葉は、教会の中の限られた人たちの言葉ではありません。一人ひとりの信仰生活の中で、「献身」ということを考えていくことは重要なことです。でもそれは、何か私たちの方に優れた理由があるのではありません。まず、神からの贈りものがあります。そして、神御自らの「献身」があるのです。

今日、聖書は私たちに語りかけています。キリストは、「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた。…わたしたちの良心を死んだ業から清める」(ヘブライ9:12~14)ために、と。

新約聖書のヨハネによる福音書の初めに、洗礼者ヨハネという人が登場します。イエス様よりも半年ほど前に生まれ、イエス様を証することを使命として生きた人です。
ある時ヨハネは、向こうから歩いて来られる主イエスを指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。この方こそ、人間の罪を担い、取り除くために、犠牲としてささげられる神の小羊だ、洗礼者ヨハネはそのように言いました。

年に一度、大祭司は、贖いの日に「至聖所」とよばれる場所に入って、罪の贖いの儀式を行いました。旧約以来、繰り返し動物の犠牲の血がささげられてきました。「命は血の中にある」と見なされてきましたからです。命であるゆえに、血が贖いとなるのです。