「私の名前を呼ぶイエス」石居基夫氏(1/3)

「私の名前を呼ぶ神―平忠度の最期」魂のゆくえ―日本人の死生観と福音理解・石居基夫氏・吉崎恵子

「私の名前を呼ぶ神―平忠度の最期」より
魂のゆくえ―日本人の死生観と福音理解

石居基夫氏(日本福音ルーテル教会牧師、日本ルーテル神学校校長)
聞き手 吉崎恵子

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「行きくれて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵のあるじならまし 」

石居
これは、平忠度(たいらのただのり)が源氏との戦いで最期を遂げる時の辞世の歌です。もうこれが最期だという時に、見上げると、そこには鮮やかに桜が咲いている。それを見て、身を寄せる場所のない自分を、今夜はこの花があるじとなって迎えてくれると詠っているんですね。桜の花の下で命を終えていくという、忠度の自然志向といいますか、そうした死生観をよく表す一つの歌です。

この忠度のことを、後に世阿弥が能にするんです。
その中で、彼が亡霊となって現れて、歌集に自分の名前をなんとか残して欲しいと願うんですね。もしですよ、歌人であり武士であった忠度が、桜の美しい所に辿り着いて、そこに自分の慰めを求め、それを詠って最期を遂げたら、もうそれで本当は慰められたはずじゃなかったのか。ところがそうじゃないということを、世阿弥は見ている。
つまり、「本音のところはどうなのよ」といった時に、私たちは自然のもとに帰っていくということで本当に慰められているのか…

吉崎
無名ではいられないんですね。