「神の勝利の右の手」小林和夫氏(1/3)

「神の勝利の右の手」神のドラマ・イザヤ書・小林和夫氏

「神の勝利の右の手」(イザヤ41章)
神のドラマ・イザヤ書

小林和夫(ホーリネス東京聖書学院教会牧師)

聖書:イザヤ書41章10〜15節 >>聖書を読む

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神をめない神の民

「わたしはあなたの神である」(10節)。

神の民。神はその民を特別に選び、契約を結ばれました。神が真実にその約束を守られるという契約の絆の中にあるのが、神と神の民との関係なのです。

ですから、これは「私は神だ、天地の創造者だ、私を崇めよ」というのではありません。「私はあなたのものだ、あなたの神だ」と自らをあらわしていたもうのです。そのお方は「あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。」(14節)代価を払って奴隷のような私たちを解放し、自由にして下さる贖い主であるというのです。しかも、いつも天にいて「お前たちも頑張れよ、私は見ているから」と仰るのではありません。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。」とあるように、いつも私たちと一緒にいて下さる神です。

それでは「神様が一緒におられる」とは、どういうことなのか。

「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(10節)

強くし、助け、支える―これはヘブル語ではすべて完了形で書かれているのです。つまり、「そのうち助けてやる、支えてやる」ではなくて、「すでにお前たちを強くしている、助けている、支えているのだ」というのです。しかも、継続的な行為としてなされていくのだと言われます。これは、非常に強い言葉なのです。

しかし、その神に対して神の民は背を向けました。「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ」(14節)。神の目からは虫のように見えたとあります。なぜなら、敵地に捕らえられ七十年、捕囚という奴隷のような生活を強いられ、踏みにじられて潰されてしまうような、あたかも虫に等しい神の民であった。しかも「神などいない、神がいるならなぜこんな目に遭うのだ」と開き直り、虚無主義に陥ってしまった。救いの望みなどどこにもない民であったのです。

そのような民に対して、神は「恐れるな、恐れるな、恐れるな」と三回も繰り返して語る。ある学者は「これは救いの訪れを告げる口調だ」と言いました。神がその苦しむ民をお救いになる時に、まず最初に「恐れるな」という声をかけて民をお救いになる、その託宣だと。契約の絆のゆえに、神はその民を見捨てず「わたしはお前の神だ」と仰る。