「闇に輝く光」川島隆一氏(1/5)

「光を見るすべーヨハネによる福音書」光を見るすべーヨハネによる福音書・川島隆一氏

第1回「闇に輝く光」
光を見るすべーヨハネによる福音書
川島隆一
(日本基督教団秋田楢山教会牧師)

聖書:ヨハネによる福音書1章1〜5節 >>聖書を読む

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◇十字架から言されるロゴス

ヨハネ福音書は「ロゴス讃歌」といわれる「言」(ロゴス)についての四つの発言から語り出します。

「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言は、初めに神と共にあった。」(一節)

その第一の発言は「初めに」です。これは、この後の「万物は言によって成った」(三節)から分かるように、「初めに、神は天地を創造された」(創世記一章一節)をふまえつつ、それをはるかに超えて天地が造られる前の「初め」があるというのです。すなわち、「時間」に先立つ原初のことです。これは言い換えますと、この「言」は私たちが生きている(時間が支配している)世界には属しておらず、それゆえ私たちが理解し、経験しうるものではないということになります。

そこで人は問うでしょう。では、なぜ、この世に属さず、理解することも、経験することもできない「初めにあった言」についてキリスト者は語り得るのか、と。

それについて、ヨハネは14節でこう語ります。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)

言は肉となった!その「言」にヨハネは「父の独り子としての栄光」を見たと語るのです。そして、この栄光こそ、主イエスが最後の晩餐の席上で祈られた祈り、すなわち「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとでもっていたあの栄光」(ヨハネ17章5節)の栄光なのです。

さらにヨハネ福音書は、この栄光を、イエスが十字架に上げられることに見ているのです。
このことは、極めて今日的な意義を持っています。
なぜなら、今日キリスト教は、十字架、すなわちキリストの死に関する解釈において大きな危機に直面していると言えるからです。

二千年に及ぶキリスト教の宣教の歴史を検証したデイヴィッド・ボッシュは「社会福音派運動にとって、神は人間の理想的属性を具現化した『愛と憐れみ』という存在であった。…そこでは、伝統的救済論的理解が消え去り、贖い主キリストは慈悲深い賢い教師イエスになってしまった。『カルバリーのキリストが同情的イエスに代わってしまった』」と言うのです。