「見捨てられたのか?」金田聖治氏(2/4)

◇耳りのよいイエス

(この主イエスの十字架をどう信じるかということに関して)実はこのごろのキリストの教会が危なっかしいと感じています。暗い顔をして誰もが口々につぶやいています。「右肩下がりで、人数もお金も減った。活気も活力もなくなって、すっかり停滞している」。その通り。しかし、なんだか心を迷わせ、気を紛らせてばかりいる。「年寄りばかりになって」などとアタフタオロオロしている。「時が良くても悪くても」(二テモテ4章2節以下)と戒められていたはずなのに。なぜか。

主イエスを信じる信仰が、その土台の所から揺さぶられているのです。

私たちは『主イエスは、まことの神であり、同時にまことの人間』と教えられてきたはずです。けれど、救い主の人間的な側面ばかりに関心と興味が寄せられる。「親しみやすいか、私たちと似たところがあるか」と。けれど、それでは一途に信頼を寄せたり、聞き従ったり、願い求めることはできないでしょう。

golgotha使徒信条は、救い主イエスの救いの御業を「十字架の死、葬り、復活、天に昇って生きて働いておられ、やがて再び来られる」と、息つくまもなくトントントントンと畳み掛けます。何故なら、ひと続きの救いの業だからです。けれど、教会ではなぜか十字架の場面でピタリと止まり、そこでただただ「かわいそう、申し訳ない」などとセンチメンタルな感傷に浸っている。

兄弟姉妹たち、よく考えてください。
もし、仮にただ身代わりになって死んでくださっただけなら、そこからはどんな希望も力も生命も湧いて出てくるはずがない。まるで感動的なドラマを見終わったら、いままで通りに普段の生活へと戻っていくみたいじゃありませんか。このように耳ざわりの良い話しを語り続け、聞き続け、私たちは古い罪の自分と死に別れることに失敗し続けてきたんです。