「洗礼を受けた武士・植村正久」加藤常昭氏(1/2)

「洗礼を受けた武士・植村正久(4)」み言葉を生きた人びと・加藤常昭氏

「洗礼を受けた武士・植村正久(4)」
み言葉を生きた人びと
加藤常昭氏(神学者)

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晩年の「汝我を愛するか」という説教の中で植村先生はこう言うのです。

「イエスは『すべての者に勝ってわたしを愛するか』とお問いになる。人間は実に弱いものである。ちょっと物見遊山に出かけるというのでその方にばかり気を取られて、肝心な霊魂の問題を忘れることもずいぶんあるであろう。わずかな快楽のために主イエスに対する大切な責任を忘れたり後回しにするといったようなことが必ずしも無かったとは言えない。命をさえ犠牲にして仕えるというのが我らの志である。ましてやそれより如何なるものは糞土のごとく捨つることが容易であるべきはずである。しかるに経験上なかなかそうはいかない。それを考えてみると、ペテロに向かってこういう問いをせられたことは怪しむに足らない。」

植村先生はペテロと自分とを一つにしています。

「愛について、ガラテヤ二章二十節に『我キリストと共に十字架につけられたり。もはやわれ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を信ずるによりて生くるなり』とあるごとく、彼がまず我らを愛し、我らのためにその命を捨て給うことをよく身にしみて、感慨深く、それが我らの肺腑に徹して霊魂のどん底までも動かすようになり、キリストに対する愛が燃え、それに報ゆるためにこちらからキリストに向かって愛を注がねばならぬようになるのがキリスト教である。我らもペテロのごとく、キリストから「汝我を愛するや」と問われても、『あなたの前に私の心は開けっ放しでありますから、あなたは何もかも御承知であります。私はあなたを愛しております』と言える者でありたい。キリストを愛するとは、必ずしも感情的なことではない。」

とても激しく心を動かしながら、この説教者は主イエス・キリストに愛されているがゆえに『私もキリストを愛する』と言うことが出来る、そこに何よりも大きな祝福と喜びとを感じております。