「神の言葉—人間の常識を超えるもの」雨宮 慧氏(1/4)

「神の言葉—人間の常識を超えるもの」第二バチカン公会議―先立つ主イエスに従う教会・雨宮 慧氏

第5回「神の言葉—人間の常識を超えるもの」
第二バチカン公会議―先立つ主イエスに従う教会
雨宮 慧氏(カトリック東京教区司祭、上智大学神学部教授)
聞き手・長倉崇宣

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◇神の思いは人の思いとはかけれている

―第二バチカン公会議後のカトリック教会で、雨宮神父様の聖書に取り組まれる思いをお聞かせいただけますか。

私は、出来る限り人間的な思いを除外して、「聖書そのものが神をどのように語っているのか」ということを感じ取り、読み取る努力をして参りました。

まず、イザヤ書55章からそのことを考えてみたいと思います。

7節の「たくらみ」と訳されている言葉は、8〜9節の「思い」と全く同じ言葉です。その一方で、九節一行目の「天が地を高く超えているように」を軸にして、八〜九節で神と人間は天と地ほどの違いがあると述べているのだと思います。

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つまり、神から見れば人間の思いは全てたくらみだということになります。こんなことは、認めがたいかもしれません。しかし、聖書は人間が常識的に考えていることを否定していることが凄く多いのです。

だとすれば、神の思いを完全には理解し切れていない人間が「主を信じる」ということをすると、それは欠けた神様、つまり人間が自分で考えた神様を信じることになってしまいます。旧約では「主を信じなさい」という言葉より「主を尋ね求めよ・探せ」という言葉の方が多いのは、人間の思いは神の思いとは遠く離れているということを認めているからだと思います。だから、「信じる」より前に「尋ね求めよ」と言う。そうでなければ、人間の思いに過ぎないものを神の思いと思いこんでいるに過ぎません。その意味で、教理は教会の教えをまとめているという点でとても良いものです。しかし、それもひょっとしたら人間の思いかもしれません。ですから、聖書の言葉に聴くということが欠かせないのです。