「聖書が述べる人間像」雨宮慧氏(1/7)

FEBC特別番組「聖書が述べる人間像」

FEBC特別番組「聖書が述べる人間像」
雨宮 慧氏
(カトリック東京教区司祭、上智大学神学部教授)

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「人間とは一体何者であるか」―自分自身をどれほど見つめてもたどり着けない問いに、真の光を放つ神の言葉―「聖書」。この聖書を原語と文章構成から丹念に読み解き、そこに込められている深い神様の御心を説き明かす、雨宮慧神父の貴重な講演をお届け致します。
(この番組は、2013年11月に行われた東京説教塾主催公開講演会の内容を再構成したものです。)

神は、無いようで存するもの
人は、あるようで存しないもの

私は聖書を読む時に、自分の考えが入り込まないように、全体の構成がどのようになっているかという事にまず気を遣います。と言うのは、我々の論理と聖書の論理とではズレがあると思うからです。まず詩編103編を、逐語訳(ヘブライ語の原文の語順を変えずに日本語に置き換えた訳)で読んでみたいと思います。

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まず6節一行目には「主は義を行う方」、そして8節の二行目に「慈しみ」という表現があり、17節にも一行目に「慈しみ」、二行目に「彼の義」とあります。また「息子たち」という表現がどちらにも出てまいります。そこから考えて、6節から18節をひとつながりの大きな段落として見ることができると考えました。

次に9節と10節には、「争い続けない、保ち続けない、行わない、報いない」という否定文(マル1)が出てまいります。そして「むしろ」という言葉から始まって11節から13節は、それぞれの節の一行目に「天が地の上に高いように、東が西から遠いように、父が息子たちを憐れむように」と比喩を表す表現(マル2)を出し、二行目で「彼の慈しみは力強い、私たちの背きの罪を遠ざける、主は彼を畏れる者たちを憐れむ」と神がどういう方かを、その比喩を使って説明しています。

しかし14節になりますと、このような構文が使われておりません。だから13節と14節の間には切れ目があるだろうと考えています。ですから9節から13節で「ない、ない、ない、ない、むしろ」、と述べることによって、神の本質を「いつまでも怒ってはいない憐れみ深い方」として表していると言えます。

ところが、14節までは神について語ってきましたが、15節からは一変して人について語るわけです「彼の生涯は草のように、野の花のように そのように彼は咲く」(黒マル2)と比喩の表現で述べ、16節では「風がそれを通り過ぎ」、人間を譬えている草花は「存在しない」(黒マル1)とあり、否定形となっています。ですから人間は「弱く、はかない」、つまり「神は、ないようで存在するもの。人は、あるようで存在しないもの」と言うことなのかもしれません。