「礼拝という希望」加藤博道氏(1/3)

「礼拝という希望」加藤博道氏

「礼拝という希望」
加藤博道氏 
日本聖公会東北教区主教
聞き手・長倉崇宣


少子高齢化、教職者不足、伝道の不振の中で東日本大震災に見舞われた東北にあって、礼拝の意味とは何か。そう問いつつ、〈共同体の絆として礼拝〉を捉え直そうとしている日本聖公会東北教区主教 加藤博道氏。
私たちが礼拝堂で、そして仮設住宅でたった一人捧げる礼拝に、どんな意味があるのか。
『典礼、それは私たちの原点であり、頂点である。』
この言葉を思いつつ、日本聖公会の礼拝改革から、今この国で私どもがどう生きるべきかをご一緒に考えます。


信徒による「み言葉の拝」

▶加藤主教
東北と言っても本当に広くて、地震、津波、そして放射能と問題は物凄く複雑です。沿岸の教会は自分の課題ですし、離れている教会も何とか共感的でありたいと思いつつも、日常に追われてしまう。各地域の状況は益々「幅」が出来てきています。その中であと数年経った時に何が残るかというのが大事だと思いますし、難しいことでもあります。
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▶長倉
そういう状況にあるこの地で、日本聖公会が信徒による『み言葉の礼拝』というのを始められたというのは?

▶加藤
約十年前までは、一教会に一人の牧師が居て当たり前と思っていた。けれども、他の教派も共通だと思いますが牧師の数が減って、無牧教会が増えています。

でも、司祭や牧師が居なければ教会は祈れないのかというと、そうではないと思います。教会というのは「祈る共同体」で、その主体は信徒です。牧師や司祭は、そういう祈りを励まし引き出していくのが役割であって、決して「牧師は祈る人・信徒は祈られる人」ではないのです。教会全体が祈ることを回復することで、むしろ(聖公会にとって礼拝の中心である)聖餐式が本当に聖餐式になる。

『み言葉の礼拝』の序文には「主日、あるいは祝日に司祭が不在であっても、会衆が聖書のみ言葉を中心にして共に祈り、感謝と賛美の豊かな礼拝を捧げることができることを意図して、この式文は作成されました。したがって司式者は執事あるいは信徒の奉仕者であることが前提となっています」とあります。説教だけではなくて聖書朗読を聴き、沈黙があり、一緒に祈り、感謝や悔い改めの聖歌を歌う。司祭が居ないので聖餐はありませんが、なんとかして「一緒に祝うこと」を回復したいのです。

▶長倉
でも、頭では分かっていても、「これが礼拝?」という反応もあるのでは?

▶加藤
その通りです。現状では「仕方のない時の礼拝」という域を出ていません。けれども、その経験の中から、今私が申し上げたようなことを感じられたらと願っています。