「聴こう、神の言葉を!」加藤常昭氏・雨宮慧氏(1/3)

60周年特別番組第3回「聴こう、神の言葉を!」

「聴こう、神の言葉を!」
加藤常昭氏 
神学者
雨宮 慧氏 カトリック東京教区司祭、上智大学神学部教授
聞き手・吉崎恵子


長年わが国のプロテスタントの神学者として、その第一線で教会を指導して来られた加藤常昭先生と、聖書学による緻密なアプローチによって御言葉の深みを説き明かし、広く活躍されておられる雨宮慧神父に、今回は私どもの生命線とも言える神の言葉にいかに向かい合うかという、キリスト信仰の要についてお話を伺います。聞き手は吉崎恵子。


聖書に向かい合う

▶加藤氏
たった一つのことを伺いたいんです。
私が雨宮先生という存在に触れたのは現代典礼研究会というところです。そこで雨宮神父が詩編の話をなさって、静かに淡々とした口調で語られるんだけれども、何か不思議な強さがあってね。
しかも、そこで説かれる聖書の言葉の響きが、「これは違う。何とも味わい深いな。」と正直に言ってびっくりしたんです。ああいう風に驚きを受け、感銘を受けるというのは、そんなに無いんですね。なぜ雨宮先生が聖書を説くと「面白い」のか。ただ好奇心を惹くというのではなくて、信仰にとっての面白さですね。こういう聖書の説き明かしをする人は、プロテスタントにどれだけいるかな、と。

先生が聖書と向かい合って、聖書の言葉を読み解いていく時の「急所」「秘密」を盗むことが出来ればと感じているんです。

プロテスタントの今の問題は、聖書学者はおりますけれども、少し露骨な表現をすると、あまり教会で役に立っていない。いわゆる学問的に聖書を読むということが、必ずしもキリスト者を生かす聖書の読み方にならなかったことは否定出来ないと思います。
どうも聖書の読み方がおかしい。敢えて言えば病んでいる。
それに対してカトリックの方達は、健康な感覚を持っておられるというのは、何故なのか。
学識とかでなく、聖書感覚や聖書を読む時のセンスと言ったことです。

聖書の言葉に触れる、ただ知識だけでなく、心で触れる、存在そのもので触れながら聖書の言葉を聴き取っていく。それが出来ているのは何故なんだろうか、というのが私の問いです。

▶雨宮氏
そんな風に言っていただけると、とても嬉しいのですが、私の学んだビブリクム(=教皇庁立聖書研究所)で徹底的に教え込まれたのは、「新約と旧約を一つのものとして読め」ということです。

どちらかというと日本の聖書学の場合、新約の専門家・旧約の専門家となっていきますよね。
ところが、神学校で学んだ時にもワルケンホルストというイエズス会の神父に教わったのですが、旧約聖書の授業をする時に、あるいは新約聖書の授業をする時に、まず詩編の言葉

を黒板に書いて、それを祈りにするんです。そして常に新約と旧約のつsp1211_img01
ながりを教えて下さったんです。
それは、カトリックの伝統の中に、教会に奉仕する聖書学というか、教会をとても大事にする姿勢が強いということがあるからかと思います。

それと聖書を読む時に、聖書本文とコンコルダンスと辞書、その三つを置いて読め、注解書から読んではいかんということです。

▶加藤氏
そう。