「父、子、聖霊なる神の交わり、その似姿への回復」ゲオルギイ松島雄一氏

教会の礼拝
—人とモノ、被造物全体の救いの喜び

テオシス(神化)に関して「神が人となったのは、人が神となるためである」とお話しましたが、神という目に見えない御方が肉体というモノをまとって人となった(いわゆる受肉)ことで、目に見えるモノの世界が、神の恵みと愛のしるしとなったということです。これは、神様が世界を創造された時のモノの世界の本来のあり方が回復されたということなのです。

人が罪に堕ちてしまった時、モノの世界は人に道連れにされてしまい、神様が与えてくださった本来の豊かさが失われてしまった。人間というのは本来、神様にその豊かさを献げ返す司祭としてその中に置かれたわけですが、「食べてはいけない」と命じられていた木の実を食べ、人間は神様との愛の交わりのなかだちとして与えられたこの世界を愛の贈り物ではなく、「自分の所有物」として横取りしてしまいました。その時からこの世界は、私たち人間が組み伏せなければならない敵対物になってしまったのです。こういう中で、「早く人間が救われてくれ」とこの世界全体が呻いているとパウロは言っています。「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 」(ローマ8章22節)そのために、とうとう神様が、モノの世界にモノである肉体をまとっておいでになって、人とモノの世界を同時に救った、ということです。