「父、子、聖霊なる神の交わり、その似姿への回復」ゲオルギイ松島雄一氏

ですから、アダムが神に背いて傷つけてしまったのは、このような三位一体的な人間のあり方と可能性なのです。この意味で、キリストの十字架と復活の救いとは、一度傷つけられてしまった三位一体的な人間の可能性を、キリストが私たちに取り戻して下さったということです。聖霊の恵みの中で限りなく神様との交わりを深め、神の性質に与る者へと変えられていくプロセスに私たちが入れられ、そこに置かれること。これこそが、私たちにとっての救いなんです。これを私たちはテオシス、神化と言います。「神になってしまう」のではありません。神の性質に与る者となるということです。ですから正教会では、テオシスとしての救いを「神が人となったのは、人が神となるためである。」とさえ表現するのです。このプロセスを歩むことを困難にする罪の重荷をキリストによって降ろしていただけたことが、私たちにとっての十字架による罪の赦しの決定的な意味なのです。

このプロセスは、終末において完成します。しかし、主の復活そしてペンテコステ以降、この世の時の中に、この終末的な完成は先取りされて、聖体礼儀の中で私たちに体験として差し出されているんです。ですから、教会というのはこの世の現実の只中で、この三位一体的な神の愛を育てていく場であり、この愛だけを源泉として人間同士が限りなく自由になっていく場なんです。そこで大切なことは、教会というコミュニティ、あるいは交わり全体が、三位一体的な神の交わりになっていくということ。この交わりの中で「〈私〉というあり方」から「〈私たち〉というあり方」へと変えられていくことが、テオシスつまり人間神化の本質なんです。

ただ、このテオシスと似たようなことは、実は近代に色々な人が言っていることなんです。ただし、神を抜きで。民主主義はこの理想を諦めて法による支配を、共産主義はこの理想を掲げながらも、実際は恐怖による支配を招き寄せてしまった。つまり、このような理想は、人間が自分たちで掲げてはいけないのです。聖霊の恵みの内に初めて人間が近づくことが出来るもの、神にしか実現出来ないものなのです。それを忘れた人間の傲慢さは沢山の悲劇を生んできました。これを、私たちは忘れてはならないと思います。