「父、子、聖霊なる神の交わり、その似姿への回復」ゲオルギイ松島雄一氏

テオシス(神化)
—三位一体的人間とその会の回復

正教会の聖体礼儀(聖餐)が始まる時、司祭は福音書を手にとって、祭壇の上で「父と子と聖霊の国は崇め誉めらる」と開式の挨拶をします。つまり、父と子と聖霊です。これは祈りの中でも何度も繰り返され、神学でも、そして私たちの生き方でも、非常に大きなウェイトを占めています。

というのも、正教会のカテキズムには、聖伝に続いて「創造と堕落」があり、そこでは創世記1章26節の「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り…』の「われわれのかたち(像、image)」と「われわれにかたどって(肖、likeness)」のところが非常に大切にされています。つまりここは、「人間は他の被造物には無い優れた能力と資質を神様から与えられて造られた」と読むだけでは全く不十分です。「人間は三位一体の神のかたちに造られて、そして三位一体の神に限りなく似ていく可能性を持つものとして創造された」と理解しなければいけない。もちろん人間には理性や分析能力、道徳的判断力もあります。しかし、何を置いても神様の三位一体のかたちに似せて造られたんです。

では、三位一体のかたちとは何でしょうか。それは、「父と子と聖霊の御三方が、それぞれの個別性と自由を完全に保ちながら、互いが互いの内に互いを分かち合い、完全な一致を実現している」ということです。これは要するに、愛です。神の愛のかたちに、私たちは造られている。このことを「人間は社会的動物だから」と表現する人もいますが、そんな次元の話ではないと思います。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 」(創世記1章27節)これを正教会は、神の三位一体性の人間における具体的な表れだと理解しています。ここで言う「男と女」は単に性の区別でなく、人間というものが互いに自由でかけがえのない存在でありながら、愛による一致へと向けられているということなのです。むしろこれは、男女が限りなく一つになりたいという思いに近い。また、その愛が破れた時の悲しさが逆説的に表している人間の真実だと捉えたいのです。それで初めて、この神の三位一体性の人間における具体的な表れが「生きた教え」になるのではないかと思います。