「われら罪に定められず」加藤常昭氏

私どもは実にしばしば、「もうちょっと適当に、救いとか罪とか面倒なことを言わなくてもよいのではないか」と考えるところがあるのではないでしょうか。たとえばその中心に十字架があります。なぜ主イエスが十字架につけられたのか。このことをよく考えるということは、私どもが自分の罪をいい加減にしないとうことです。いや、私どもが罪についていい加減な思いを抱かないというよりも、神様のほうでこれをいい加減に扱わずに、このためにこそ御子イエスを送って下さって、厳密に正しい手続きを取って罪を罰することによってご自身の正しさを貫いた。そこはいい加減になさらなかった。神は神であられるということをちゃんと果たされた。

そして、ここが不思議なところですけれども、また神様の恵みの手続きの誠にきちっと整っていたところであって、その罪の処罰によって私ども自身が殺されなかった。私ども自身の思いが滅び以外なにものでもない、死以外なにものでもないというふうに事をお定めにならなかった。そうではなく、私どもには命と平安とが与えられる。ここのところは、私どもがどんなに水も漏らさない周到な議論をやっても、知恵や理屈では説明できない、神様の救いの手続きの私どもの思いを超える大きなところ、優れたところ、いや神秘的と言ってもよいところではないかと私は思います。この神の恵みに支えられて言うのです。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」

(文責・月刊誌編集部)