「今、神学するということ」石居基夫氏

「私たち一人一人が神学者」神が問われる―私たちの対話的教義学講座・第1回「今、神学するということ」より・石居基夫氏・長倉崇宣

第1回「今、神学するということ」より
神が問われる―私たちの対話的教義学講座
石居基夫氏
(日本ルーテル神学校校長)聞き手:長倉崇宣

「対話」から神学がまる

「神学」「教義学」と聞くと、難しそうだと思われますが、実は私たちが信じているキリスト教の信仰がどういうことなのか、その内容をきちんと整理をしながら確認していくことなんですね。
たとえば自分が信じている内容について「それは一体なんですか?」と言われた時に、説明をしますね。でも「説明されても分かりませんよ」と言われることがある。自分にとっては当たり前だと思っていることが、全然知らない人は「どうしてイエス様が神様なの?」「神様なのに人間なの?」となる。「分からない」と言われて初めて、じゃあ自分が信じていることはどういうことなのだろう?と逆に問い返される。きっと神学というのは、一番初めの時からそうやって進んできたんです。

キリスト教が広まっていってパウロが異邦人への伝道を始めた時、ギリシャ文化のアテナイ(アテネ)の人々に伝えても分かってもらえない。どうしてだろう。そうか、ギリシャの人たちはこういうふうにものを考えるのか…じゃあ、こんなふうに語ってみようかな?…そこでは、宣教が「対話」として起こっているということですよね。全然違う人と出会って、話をして、分かってもらえなければ言葉遣いを変えてみたり、相手が何を考えているのかをちゃんと聞き取らなければ伝えることも出来ない。ですから神学というは、そういう対話がもともとあって、そこから自分の信仰を確認し、相手にも伝える、そういうことなんだと思うんです。