「福音主義教会の建設へ」徳善義和氏

・礼拝改革—十字架の言葉に生きる

もちろん第一に手を付けるのは、礼拝です。マルチン・ルターが礼拝の改革をするにあたって考えたことの一番中心にあるのはこういう考え方です。
〔我々が礼拝ということを考えると(礼拝は英語でサービスと言いますが、サービスは奉仕ですから)『神様に奉仕をする』という風に考えがちです。色々な宗教はどれもこれも、神様の気持ちをなだめ和らげ満足させるために、人間が神と呼ばれるものに奉仕をするという形で起こっていると思います。キリスト教の礼拝は、その点で全く違って180度逆の方向を向いている、そう私はマルチン・ルターから学び取っています。〕

『礼拝は、罪人である私たち、欠けの多い土の器に過ぎない私たちに向かって、全てにおいて満ち足りておられる神ご自身が奉仕して下さる、そのような神の奉仕だ』というのが、マルチン・ルターの礼拝についての考え方でした。
『イエス・キリストの十字架の血潮による奉仕によって私たちの救いが成就するのだ、神がそのように私たちに働いて下さる。そのことは、我々が神の御言葉によって十字架のキリストを示されるという形で礼拝の中で起こってくる。礼拝のどの部分をとってもそのことがはっきり現れてこなければならず、神様のお働きがそのように礼拝の中で奉仕の働きとして起こってくるならば、その一コマ一瞬ごとに、私たちもまた「アーメン、しかり」「アーメン、感謝」とお応えして礼拝していく、礼拝というのはそういうものだ』という風にルターは考えて、イエス・キリストの十字架の救いを宣べ伝える神の言葉・福音を中心に据えて、その福音を中心とする私たちの罪の認識と罪の赦しが終始はっきりするような形で、礼拝の改革を成し遂げたのでした。

民衆は今や、礼拝という具体的な場所の中で「これこそ私たちの礼拝だ」、そう実感する思いに満たされながら、マルチン・ルターの礼拝改革に従っていったと思います。

(文責・月刊誌編集部)