「十字架につけられたキリスト」平野克己氏

陰府に降って近づかれるキリスト

「十字架につけられたキリスト」、これは不思議な言葉です。元の言葉では「十字架につけられたままでいるキリスト」と訳すことができるのです。一度十字架につけられて復活したキリストと言うのではないのです。主は復活なさったのに、しかしパウロは十字架につけられたままのキリストをはっきり見続けて欲しいと願っている。「十字架につけられたキリスト」、この時代にそれがどんなに衝撃的な言葉だったか。十字架はローマの権力による処刑方法です。事もあろうに救い主が最も残酷な方法で処刑されたのです。どうしてそのことを忘れるのか。ギリシア人は知恵を求めるからです。もっと立派な美しい、何一つ欠けたところのない知恵を。ユダヤ人はしるしを求めるからです。自分の生活が具体的に変化し、自分の願いが叶い、豊かになっていくことを。しかし、キリストはそのような私どもが登っていく上におられるのではない。ずっとずっと下におられるのです。だからパウロはこれを「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(9節)と言ったのです。この世の知恵ではなくて、ただ霊によってのみ、信仰によってのみ初めて知ることのできることだと。

昨年の暮れに私の妻の母が病床で洗礼を受けました。手足が縮まりながら硬直してしまう病で、どんなに厳しい日々であるかわからない。その母が洗礼を受けたいと願った。洗礼を授けた時、申しました。「お母さん、これであなたには仕事ができた。」ベッドから起き上がれなくなる日が来ても、私たちは召し出されているのです。最後の最後までなし得ることがある。あるいは社会の中で大切な責任を担っている者たちも、果たすべき役割がある。主イエス・キリストと共に生きることです。 私たちはもっと知恵ある者になりたい、もっと健康でありたい、もっと幸せでありたいと願います。けれどもそれが破れてしまう時、神に捨てられたと思うかもしれません。しかし、私どもと同じように神から捨てられた方がどんどん近くになるのです。十字架につけられたままであるイエス・キリストです。ですから、主イエス・キリストが最もはっきりするのは私たちの葬儀の時かもしれません。主イエス・キリストが深い墓の穴に、陰府にまで降ってくださったからです。