「十字架につけられたキリスト」平野克己氏

教会は誰のもの?

「教会」という翻訳は、何か教えを聞くために集まっているような誤解を与えます。しかし元の言葉は「エクレシア」、召された者たちの群れという意味の言葉です。
しかしそのことをいつの間に忘れて、この世のやり方が教会の中に持ち込まれるのです。

2009年、日本のプロテスタント教会は宣教150年を迎え、加藤常昭先生が講演をなさいました。そこで先生はこう繰り返されたのです。伝道者としての悲痛な叫びでした。

「キリストの体である教会を、キリストにお返しください。」

そのように言わざるを得なかったのは、いつの間にか教会さえも自分たちのものにしている。自分の願いを叶える場所、自分の生活の彩りの一つに。言ってみれば教会を食い物にしている牧師たち、信徒たちの姿があるからでしょう。「キリストの体をキリストにお返しください。」そこには伝道者パウロの息づかいがあります。パウロは幾度も申しました。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」。コリントの教会はギリシア人の多い教会です。そこでは華麗な弁論術がもてはやされる。あるいはユダヤ人もいた教会でした。彼らはしるしを求め、奇跡を起こして欲しいと願った。しかしパウロは、「恐れに取りつかれ、ひどく不安」(3節)な様子で、ただ十字架につけられたキリストだけを宣べ伝えたのです。