「死、それは祝宴の時 ―カトリック教会の死生観と葬儀理解」小田武彦氏

―嬉しそうな顔ですか?

はい、嬉しそうな顔です。私たちが死を考える、その出発点は洗礼にあります。洗礼を受けたということは、キリストの「死」に結ばれたということです。「あなたがたは…洗礼によって、キリストと共に葬られ…」(コロサイ2:11-12)とあります。

さらに聖餐も私たちの死と切り離すことができません。聖餐式のパンは、私たちのために引き渡されたイエスの体であり、ぶどう酒は私たちの罪のゆるしのために十字架で流された新しい契約の血だからです。

そして肉体が死ぬとき、この洗礼の恵みが最高の効果を発揮し、キリスト者はキリストと完全に結ばれます。肉体の死は、御父との出会いの場そのもの、御父との交わりの絆なのです。

―「死に於いてこそ完成する」のですね?

そうです。だから、キリスト者にとって死は、この世における苦しい闘いから身を引くことではありません。イエスご自身が世に遣わされたように、「主に結ばれて死ぬ人々」(黙示録14:13)は、イエスと共に世に派遣されるのです。

そもそも、キリスト教には「死を忌む」という観念はありません。死は凱旋であり、新しい命に生まれる日だからです。古代教会はこの信仰に基づき、逝去の日を「誕生日」と呼びました。そして、何周忌と言う代わりに「命をいただいた日の祭」という意味で、命日祭を祝います。それは、故人の冥福を祈るだけでなく、復活への信仰を新たにし、主にある絆は死によっても断ち切られないという信仰を表わすためです。

ですから死によって、「最高の祈り」が始まるとも言えます。キリスト者は主のもとに行き、主を通して、主とともに、御父のもとで生きている者のために執り成しの祈りを続ける使命をいただくからです。

(文責・月刊誌編集部)