「罪と赦しの秘跡―福音の神髄」岩島忠彦氏

たに神と共に出発するプロセス

赦しの秘跡
・人間の回心に先立つ、祝宴へのプロセス→福音
・それ故、赦しは罪の告白を必ずしも前提としない
・だが人は告白を通して、新たに神と共に出発する

このたとえでは「神様の赦し」がテーマ化されています。しかしそれは一つのプロセスみたいなものです。息子の告白の言葉を父親はほとんど聞いていない。聞いていないけれども聞く前から赦している。つまり「赦してください」とか「赦す」とかそういう問題じゃないんです。当然、赦されている。そして、祝宴が行き着く先です。つまりまた神と神の子としての交わりを持つことができる。その大きな喜びと恵みへのプロセスの中に、罪の赦しというものが当然のこととして入っているんです。これが福音なわけです。

赦しの秘跡というのは、こうした福音が再現されることなんです。神様はいつも赦しているから、罪の赦しというのはなにも赦しの秘跡だけで与えられるものではありません。けれどもやはり自分の口で告白して赦されるとき、人は本気になるんです。赦しの秘跡のことを「小さな最後の審判」という言い方がされます。つまり死んだら否応無しに神の前での自分の有り様が現れてくる。それを生きている間に自分のほうから告白し、赦しを受けるというのは、一つの審判です。同時にこれは、赦しそのものが通過点だということなんです。実際に赦しの秘跡に与ると、すごく満たされた気持ちになる。これは息子が帰ってきた後の祝宴みたいなものなんです。赦してもらうために告白するというよりも、そこにおいて自分がまた新たな形で神と共に出発する、それを実感をもって感じるんですね。この福音の大きな喜びに与るということが行き着くところで、放蕩息子のたとえでいう祝宴です。こういう福音の中心的なことがいつも起こり続けるように教会には赦しの秘跡というものがあるんですね。
(文責・月刊誌編集部)