「罪と赦しの秘跡―福音の神髄」岩島忠彦氏

「そこで彼は本心に立ちかえって言った」(17節)。

彼は本来の心に戻ったわけです。「いったい俺は何をやってるんだ」という感覚ですね。この本心に立ちかえるというのが回心ということなんですね。「私が間違ってました」とはっきり認めようと。自分の中にある何かおかしいものを「認めたらおしまいだ」と思っている間は戻れないんです。回心というのは「私は罪を犯しました」と認めるわけです。

しかし、そうしようと思うだけじゃダメなんです。ここでは言葉がダブっています。「立って、父のところへ帰ろう」(18節)と言って、「そこで立って、父のところへ出かけた。」(20節)ただ頭で思っている人は多いんです。しかし実際立ち上がって行くということがないと本当の回心にならないんですね。

さて、この話は人間の罪の現実というものがそのまま現れているんですが、この話の中心は実は放蕩息子ではなくて、待っている父親にあるわけです。つまり「神様はこういう方だ」ということのたとえ話なんです。20節で主語が「父」に替わります。

「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」(20節)

「まだ遠く離れていた」ということは、いわばまだ回心は完結していないところで父が迎えに来てくれるわけです。「哀れに思う」という言葉は非常に強い言葉で、原語では「スプランクニゾマイ」という「内臓」を表す言葉の動詞形です。要するに肝が締め付けられるとか、かわいそうでかわいそうでじっとしていられないというような言葉です。

「むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(21~24節)

息子は自分の罪を告白している。だけど父親はそんなことほとんど聞いてないという感じです。ここに現れているのは息子が帰ってきたという父親の喜びなんです。そしてそこで祝宴が始まったということは、この人間はその本来いるはずであったところに戻ったことを通して、大きな安心、喜び、そして子としての自由、そういったものを得ているということです。