「罪と赦しの秘跡―福音の神髄」岩島忠彦氏

本当の心を通して
人間性が回復していく

放蕩息子のたとえにみる「赦し」のプロセス
・息子:放蕩により飢餓状態つまり尊厳の喪失に陥る
・転換点:本心に立ちかえる(回心)こと
・父親:哀れみと息子の回心さえ待たない帰還の喜び

ルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」は、イエスのメッセージの中心が「赦し」であることの典型的な箇所です。

この父親は神様のイメージで、我々は息子です。そして出発点では家族が一緒に住んでいる。つまり本来は神様と共にあるものだったのに、自分がもらう分をよこせと言って出て行くわけです。

「幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所(できるだけ遠く)へ行き」(13節)という言葉には人間の心理がそのまま現れています。自分のものが確保できたとなると家(神のもと)から離れてできるだけ遠くまで行ってしまう。そしてその「自分のものだ」としているものは何かというと、単なるお金だけではないと思います。命も時間も健康もすべて神様からいただいたものです。でも「これは私のものだ」と言い出すわけです、人間は。そして、それを自分の好きなように使おうとしたとき「放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」

この「放蕩」という言葉は原語のギリシャ語では「まき散らす」というような意味があります。つまり本来の目的ではないところで無駄に消費されてしまう。そして「何もかも浪費してしまった」(14節)というのは、父の家から遠く離れていればいるほど起こることです。さらに「ひどいききんがあった」というのはたまたまあったのではなくて、人間が「俺のものは俺の好きなように使う」と言ったとき、いわば人間性の飢えとでも言いますか、このままでは何かが足りないという飢餓状態に陥るわけです。そうすると何でもいいから口に入れたいと。それで豚飼いをさせられたとありますが、ユダヤ教では豚は触れてもいけないんです。その豚の餌さえも食えなかったと。つまりもう人間の尊厳を失っているということになるわけです。

「人間は罪人である」というのは、こういうような、いわば神様と私との関係がどこか狂って、できるだけ神様から遠く離れて、それこそ捕まったら死刑だみたいに思うことで、その不自然さというものが人間にひずみを起こさせ、自分自身が飢えに苦しむことになるんです。

ここでこの話のターニングポイントがあります。