「イエスの食物」川島隆一氏(5/5)

「光を見るすべ」ミニコーナー

「なあなあ」の信仰は成り立たない

ヨハネ福音書で繰り返し語られていること。実はそれは、『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された』というこの福音は、同時に裁きでもあるということです。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(3章19節)

福音は同時に裁きでもあるということです。福音の裁き。このことの前には、「なあなあ」の信仰というものは、成り立たないのではないでしょうか。

隈部氏「渇れない水」

私が聖書を十字架の言として説き明かす時にいつも目の前に思い描いているのは「同情的イエスがカルバリのキリストに取って代わってしまった」ということですが、裁き無しの約束の成就ということが語られ始めているように思います。「十字架も復活も必要無い、神の愛で充分だ」と。その場合、「罪も咎もあるままに」ということは安価な恵みでしょう。しかし、『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された』というこの福音は、同時に裁きでもあるというこの一点がある限り、「なあなあ」にはならない、いや、なり得ないのではないでしょうか。

私はサマリアの女が、自ら汲みに来た水をその場に置いて、人前に出て「私はここにいます!」と語った変化の大きさに驚かされます。主イエスの救いが、ここに具体的に描かれていると驚きつつ読んでいるのです。