「忘れ得ぬいのちの証人・森 有正」加藤常昭氏(2/3)

信仰によって与えられる経験

さらにこの事で森先生は次のように私どもに教えて下さっています。

img_moriarimasa「体験と経験とは違う。人間の真実の真理の知識は経験によって獲得され深められる」

「体験というのは、自分の経験の中に閉じこもって自分の経験だけを唯一の砦として、それをもって他を批判して止まない。ところが経験というのはあくまで開いていて新しいものを学び、外の経験に向かって開いていく。そういう本当の意味の経験は、信仰という要素を含んでいなければならないのです。」

信仰によって与えられている経験というのは、開かれたものだと言うのです。「信仰体験」と言っても、自分の体験だけを絶対化し、他を批判するようになってはならないという事です。

信仰は経験の外から来る

(経験と信仰について)忘れ難い事として、森先生は「信仰というのは経験の外から来る」と主張なさったことです。信仰は人間の経験の中にはなく、外に根拠を持っていて、外から人間の経験の中に入ってくるものである。つまり神がもたらしてくるものなのです。その神が与えて下さる信仰というのはどういう意味を持つのか。

「人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことが出来ない。」

私が最も忘れ難い思いをもって読んだのはこの言葉です。他の所では、「神様にも隠しておきたい」と言っておられるものもあります。ここでこそ神に会いたくないと思うほどの、人間の深い心の場所がある。

なぜ神に会いたくないのか。罪を知っているからです。人間の経験の問題の一番深いところにあるのは、結局は罪の問題ではないか。森先生は「罪」について深く考えた方です。それゆえ現代の教会に対して「真実に罪を語る言葉を持っているか。その罪からどのように解き放たれるか、それを語らずして教会の信仰が成り立つのか」と問いかけます。

(文責・月刊誌編集部)