「『旅する神の民』として―司牧の現場から第二バチカン公会議を振り返る―」幸田和生氏(2/4)

教会の使命をたすために

―組織的にも大きく歴史も長いカトリック教会が、ある意味で自らの伝統を見直してまで変わろうとする理由とは?
▼一つには、私たちの現実には人間の叫びがあり、そこに本当に福音の光、イエス・キリストの光をもたらしたいという思いからです。ですから、人々の叫びに鈍感であったら、教会は全然変わらないと思います。

では、伝統はどうなるのかという問題があります。19~20世紀の歴史学の発展によって初代教会やイエスの時代のことも分かるようになって、二千年の伝統にはそもそも、もっと豊かな伝統があったのではないかと思います。

1403_01_svco140307_02だから、教会が変わる原点はいつも同じです。それはキリストという原点に帰ることです。この他に私たちには変わるべき軸はありません。今の社会の変化に教会を合わせるということではなく、今キリストがいたらどうされるか、何を語りかけるかというところから、教会の姿勢を問い直していくということ。それが、教会が変わるということだと思います。最近、『エキュメニズムに関する教令』という第二バチカン公会議の公文書の一つを読み返していたのですが、強調されていることは、それぞれの教会がキリストに立ち帰るなら、お互いに尊敬出来、協力し、一致に向かっていけるということなんです。表面的に話し合って「お互いに仲良くやっていきましょう」というのではなくて、キリストに立ち帰るところに一致がある。その意味でも、教会が変わるのはいつもイエスに立ち戻るところからでしょう。

もう一つには、『教会憲章』においてはっきり打ち出されている「旅する神の民」ということです。それまでヨーロッパなどでは、みんなクリスチャンであるのは当たり前だった訳です。しかし二十世紀になって、クリスチャンというのは全人類の一部分でしかないことに気づくわけです。「では、私たちは何なのか?」というのが第二バチカン公会議の問いです。そしてその応えは、「私たちは、神様によって救いの道具として選ばれ、地の塩・世の光としてこの世界に派遣されている者なんだ」と。「この中に救いがあるんだから、皆入ってきなさいよ」という教会観から一歩抜け出そうとするのです。これは、私たち一人ひとりにとって物凄く大切です。神様が何故私をキリスト者にして下さったかといえば、私だけを救うためではありません。この日本の全ての人を救うために、私が何故か不思議にも選ばれて、神様が救いの道具として使って下さるんだというミッションの意識を、私たちはもっと持つ必要があります。