「『旅する神の民』として―司牧の現場から第二バチカン公会議を振り返る―」幸田和生氏(1/4)

「『旅する神の民』として―司牧の現場から第二バチカン公会議を振り返る―」幸田和生氏

第6回〈最終回〉 「『旅する神の民』として―司牧の現場から第二バチカン公会議を振り返る―」
第二バチカン公会議―先立つ主イエスに従う教会
幸田 和生氏(カトリック東京教区補佐司教)
聞き手・長倉崇宣

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危機感からの

―東京教区の責任を担っておられる幸田補佐司教様に、司牧の現場の観点から、第二バチカン公会議が持っている意味をお伺いしたいと思います。
▼そもそも、第二バチカン公会議の開催には、私の理解では二つの背景があり、一つは、二十世紀前半の二つの世界大戦とナチス・ドイツによるユダヤ人迫害への「教会はもっと何か出来たのではないか、本当にすべきことが出来なかったのではないか」という反省ともう一つは、世俗化という問題です。人々が教会を離れ、実際の生きている人間に教会が語りかける力が失われてしまったのではないか、本当に現代人に響くメッセージを伝えるにはどうしたらいいのかという問題意識がありました。

しかし、それは主にヨーロッパの問題意識です。当時、日本のカトリックにはそういう意識は無かったと思います。日本の場合は、敗戦後にそれまでの価値観が崩れてしまって新しい何か確かなものを求めてクリスチャンになった人が多く、そういう人にしてみれば、時代がどうであれ永遠不変の真理として信仰を受け取った。ですから第二バチカン公会議も何か天から降ってきたようなもので、突然「教会が変わるのか?」と驚いたと思います。

―とすると、教会が変わることはなかなか受け入れがたいところがあったということでしょうか?
▼もちろんありました。伝統的に「これが信仰だ」「これを生きていけばいいんだ」と思っていた人が大勢いる訳ですから、凄いショックを与えたと思います。

さらにもう一つ、日本ではキリシタンの時代の250年間の禁教と迫害の時代を経て明治になって信仰が蘇って来る訳で、それを大切に守ってきたという思いが非常に強いですから、新しく変わってしまうことには抵抗が随分あったと思います。

ですから、本当の意味で第二バチカン公会議の精神が日本の教会を変えていくようになったのは、80年代に入ってからです。「開かれた教会作り」というスローガンが作られ今までの教会のあり方を本当に変えないといけないと。でもこれらの動きは、日本は60年代に高度経済成長があって、70年代からはバブルへ向かっていくという中で、日本でも教会離れが目につくようになって、自分たちの信仰の危機を感じたというところから出てきたものです。

―ヨーロッパも日本も、危機感からこの公会議を受け止めていったんですね。
▼そうです。日本ではヨーロッパよりも少し遅れて現実になっていきました。