「聖書が述べる人間像」雨宮慧氏(6/7)

誰との関わりにおいてを見るべきか

そこで「悔い改め」について考えたいと思います。

日本語では「悔い改め」と「後悔」はほぼ同じ意味ですが、聖書ははっきりと区別しています。第二コリント7章10節にこんな言葉があります。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

ただただ悲しみ一色というのは「後悔」。しかし、そこに「神の御心に適った」ということが加わると、救いに通じる「悔い改め」なのだということでしょう。「神の御心に適った」という表現は「カタテオン」という言葉が使われていますが、直訳すると「神に応じた」というような意味です。それを人間の方から見ると、「悲しみの中で神と関わる事が出来た悲しみ」ということだと思います。反対に「世の悲しみ」とは「神と関わりを欠いた悲しみ」になるかもしれません。

ペトロは三度イエスを否み、そこでイエスの言葉を思い出して激しく泣きました。

「…ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 」(マタイ26章74~75節)

この涙は後悔の涙か、それとも他の涙なのか。 一方、ユダは首をつって死んだ程に後悔していたわけです。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタイ二七章三〜五節)

ペトロも裏切ったわけですから、裏切ったこと自体が決定的な失敗ではないはずです。だとすると、ユダの失敗はどこにあるのか。注目したいのは四節のユダの言葉です。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。ここでは誰との関わりの中で罪を見たらよいのか書かれていません。

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